暗越奈良街道

このページは、暗越奈良街道の案内です。まず、玉造から玉津橋までを紹介します。

第3話 暗越奈良街道

 最近、「伊勢参宮」ののぼり旗を掲げ、昔ながらの伊勢参りを行うイベントがありました。このイベントは、昔の伊勢参りで歩いた道をたどり、大今里・深江から生駒の暗峠を越え、奈良に入る伊勢街道を170キロ歩き、元日の朝に伊勢神宮に到着するというものです。

 この暗越奈良街道は710年前、都が飛鳥から平城京に移されると難波津(大阪港)に上陸した人や地元の人たちが生駒越えの路として利用しました。鎌倉時代にはすでにこの道が利用されていたらしく、暗峠にある石の地蔵さんに文永年間(1264−1274)の年号が刻まれているといいます。

 街道の歴史は古く、豊臣秀吉が大阪に城を築き城下町が造られ、弟秀長を大和郡山の城主にすえると、大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道が注目され、多く利用されるようになりました。江戸時代の中ごろから、世の中が平和になるにつれて、信仰と行楽を兼ねて大峰詣りや長谷詣り、信貴生駒への月参りで賑わい、伊勢参宮道とも言わました。

 江戸時代前から明治の初めごろまで、暗峠を越えて奈良三条へ行くこの道の起点は玉造の二軒茶屋でした。道を挟んで北側に「ます屋」南側に「つる屋」の二軒があったので「二軒茶屋」と呼ばれました。ここで伊勢参りや大和の寺へ旅立つ人たちが見送りの人たちと別れを惜しんだといいいます。

 玉造を出て暗越奈良街道の橋を渡り、東に進むと平野川に突き当たります。古くは百済川と呼ばれ、この川にかかっている橋が「玉津橋」です。「玉津」とは、「玉造の津」すなわち「玉造の港」という意味で、江戸時代、橋の東詰やや下流に本庄村の船着き場があり、明治35年には馬車の発着所が設けられ、ここから瓢箪山まで馬車が通っていたらしい。現在、本庄の名は「大阪市立本庄中学校」だげが残っているだけに過ぎません。

 大正時代の橋は巾2間1尺(約4メートル)長さ11間4尺(約21.2メートル)で橋板には丸太を並べてその上に粘土を置いた橋でした。近世の平野川は旧大和川の一支流でしたが、300年前大和川の付け替えで大阪と河内を結ぶ重要な輸送路となりました。寛永13年(1636)平野川に柏原舟と呼ばれる剣先舟が河内の柏原と大阪の八軒屋(地下鉄天満橋付近)の浜との間で貨物の輸送を始めました。

 主として大阪からは肥料や干鰯を、河内からは特産の木綿や米が運ばれ、その最盛期には、70艘の舟が往来したといいます。明治に入り、鉄道の開通や道路の整備などで 、陸上の交通機関にその座を奪われ、明治の中ごろにはなくなってしまいました。平野川は生野区の俊徳橋北あたりから東成区中本橋まで曲がりくねっていたため、しばしば氾濫を起こしたので、大正12年(1923)に直線に改修され、長い年月を経て現在に至っています。

 二軒茶屋後のすぐ東を流れていた猫間川に慶安3年(1650)幕府の命により大阪市内で初めて「黒門橋」という石橋が架けられました。昔この付近にあった大阪城の玉造門が黒かったことに由来しますが、当時石で造られた橋は珍しいため、皆「石橋」と呼びました。

 正徳元年(1711)に架け替えられた石橋を渡るには1文を奉行所に支払わなければいけませんでした。現在の有料橋の始まりです。ところが、この橋を渡って、田畑の肥料にする下肥をくみ取りに行く今里・深江方面の百姓は困り、奉行所に訴えたので、その人たちは無料になったとのことです。

 猫間川に架けられた石橋は巾13尺(約4メートル)長さ22尺(約6.7メートル)で、使用された石は縦3尺5寸(約1.3メートル)横11尺(約3.3メートル)厚さ1尺1寸(約33センチ)の長方形の6枚組だったそうです。この橋は大正3年に取り壊され、昭和2年大阪市より土地の氏神である八坂神社と八王子神社に石材として寄贈されました。

 4枚は八坂神社の西塀に利用され、後に2枚は昔のままですが、残り2枚は切断され短くなっています。その残りは、神社の狛犬灯篭の台石に使用されているようです。この石の往来が通った部分は欄干部より3ミリもすり減っていたといいますが、230年間に歩いた渡橋者のわらじがそうさせたのでしょう。昭和5年に建てられた「玉造名所二軒茶屋石橋旧跡」と刻まれた碑は、橋の一部の石材で造られたといいます。

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