暗越奈良街道

このページは、万葉に詠われる大阪、そして神話にある東成の地名等を中本よもやま話第1話で紹介しています。

中本のよもやまばなし

中本小学校では、平成11年度より地域の方を招きむかしの生活や習慣についてお話しいただいてきました。そのなかで井西康郎さんがむかしの中本のことを、お話くださった内容を抜粋して紹介いたします。

先輩の先生方からお聞きしたところによると、江戸時代にあった中道・中浜・本庄の村が合併して「中本」の地名が生まれたという。この中本地区は、東西に通っている暗越奈良街道と、南北に流れる平野川の合流点なので、近世になって東成で最も栄えた土地だったと聞いている。この街道と川が中本の繁栄と東成のにぎわいを築いてくれたのである。

暗越奈良街道


ある年の12月末の朝8時頃、門先で掃除をしていると、数十人の若者が足早にやってきた。菅笠をかぶった人も2、3人見うけられる。何事が起こったのかと驚いていたら「伊勢参宮」ののぼり旗が目に入った。
昔ながらの伊勢参りを再現したイベントであると気づき安心した。なかの一人が私に「行って参ります」と声をかけてくださったので私は慌てて「お気を付けて」と間の抜けたような挨拶を返し、皆さんのご無事を願って見送ったのだ。

この人たちは、むかしの伊勢参りで歩いた道をたどり、大今里・深江から生駒山の暗峠を越え、奈良に入る伊勢街道を170キロ歩き、元日の朝に伊勢神宮に到着するという。
この暗越奈良街道は710年前、都が飛鳥から平城京に移されると難波津(大阪港)に上陸した人や地元の人たちが生駒越の路として利用した。
鎌倉時代にはすでにこの道が利用されていたらしく、暗峠にある石の地蔵さんに文永年間(1264?1274)の年号が刻まれているという。

時代はずっとくだって豊臣秀吉が大阪に城を築き城下町が造れられ、弟秀長を大和郡山の城主にすえると、大阪と奈良を結ぶ暗越奈良街道が注目され、多く利用されるようになった。
江戸時代の中ごろから、世の中が平和になるにつれて、信仰と行楽をかねての物見遊山が盛んになり、暗越奈良街道は伊勢参りをはじめ、大峰詣り長谷参り信貴生駒への月参りでにぎわい、伊勢参宮道ともよばれた。

大阪平野と奈良盆地をむすぶ道は何本もありますが、歴史が古く江戸時代に最も往来が盛んだったのは暗越奈良街道でした。
この道は東成区の中央を東西に横切り村々を通って暗峠を越え、奈良へ通じていました。
生駒山を越えるときに杉の木が茂って昼でも暗い”くらがり峠”を越えることからこの名前が付いたそうです。
現在は大部分が改修されていますが、東成警察署から今里筋を越え熊野大神宮までの道筋は古い家並みや道標がのこり賑わった昔が偲ばれます。
近世の東成の歴史文化は東西に走る暗越奈良街道と南北に流れる平野川によって作られてきたといっても過言ではありません。
昔わが国では、大陸から進んだ文化が玄関口である難波津と政治の中心地である大和とをむすぶ道路が必要で、都が平城京に移ると最短コースである生駒山地を越える道が利用されるようになりました。
また江戸中期から伊勢参りが盛んになり、一日7-8万人もの人が通る賑やかさでした。
大正時代には路線バスが瓢箪山まで往復していたそうです。
現在も毎年12月28日に玉造稲荷神社を出発する伊勢参りの会があるそうで、170qの道を歩いて元日の朝、伊勢神宮に到着するのです。一度参加してみませんか。



二軒茶屋


江戸時代前から明治の初めごろまで、暗峠を超えて奈良三条へ行くこの道の起点は玉造の二軒茶屋だった。
道をはさんで北側に”ます屋”南側に”つる屋”の二軒があったので「二軒茶屋」とよんだ。
ここで伊勢参りや大和の寺々へ旅立つ人たちが見送りの人たちと別れを惜しんだという。
上町台地の北の端にあった石山本願寺が、信長に攻め滅ぼされてから3年後の天正11年(1583)この地を手に入れた豊臣秀吉はそこに大阪城を築き、ここを大切な足場として全国統一に乗り出しました。
当時の東成は大阪城の東に当たり、玉造口と大和口の大切な2つの出入口にあったのです。
街道口にあたる中道村の二軒茶屋や街道沿いの深江村も大いに賑わったのです。

 

平野川と玉津橋


 

暗越奈良街道の平野川にかかっている橋が玉津橋です。
津とは港の意味で”玉津”は玉造の港をあらわしていて、享保20年(1716)頃の本にこの橋の名前がでているそうです。
江戸時代は柏原舟猫間舟による運送が盛んで、平野川・猫間川は共に大阪の繁栄を支えてきたので、地元である東成はおおいに潤いました。
玉津橋の東詰本庄村に船着場があり、水運の中心的役割をしてきました。
大正時代の橋は板橋に丸太を並べ、その上に粘土を置いた土橋で両側に鉄の欄干が取り付けられていましたが、昭和60年(1986)に現在の橋に架け替えられました。
むかし今里西之口公園付近は平野川につづく大きな水路のたまり場になっていて、平野川を行き来する柏原舟が方向を変えたところでした。大きな水路は大正時代末から昭和初期に埋め立てられました。
小さな水路は少し残されたものもあって、戦前は米を洗うことが出来たほどきれいだったようです。

 

むかし平野川は生野区の俊徳橋から東成区の中本橋まで、曲がりくねって流れていたため、たびたび川の水が溢れ水害となったので、大正12年(1923)に直線に改められ現在のようになり、付近の住民と共に生きてきたのです。

   

五千石堤


 

暗越奈良街道は中道より玉津橋を渡り、右折して東成警察署前を通り、今里筋を横切って東に進み大阪枚岡奈良線と合流しています。
かつて付近には井路川が多く、暗越奈良街道はその堤防の上を通っていたので、曲がりくねった道路となり、付近の土地よりずいぶん高いところになっていました。
この堤防は”五千石堤”と呼ばれました。
明治18年の大水害のとき、このあたりも軒下まで水につかる大きな被害を受けましたが、明治24年水害予防組合ができて、この堤防によって守られるようになりました。
この地域の石高は五千五百石あったことから名称も”五千石水害予防組合”と名付けられ、深江にいたるまでの道を”五千石堤”とよばれたのです。

   

疎開道路


 

正式名は豊里矢田線ですが、土地のほとんどの人が”疎開道路”とよんでいます。
若い人には疎開という言葉になじみがないでしょうが、辞書を引くと「くっついているものの間を開けること」とあります。
 戦時中空襲などに備えて、建物の間を広げたり、都市の住民が地方に引っ越すことを言いましたが、この道はアメリカの空襲に備えて、延焼を防ぐためにつくられたのです。
 昭和18年(1943)12月、政府の命令によって、東小橋南之町3丁目から北中道にいたる1200戸が、区役所内の疎開指導所と町会が中心となって行い、昭和19年4月に移転を完了。
その後、平成12年(2000)に大阪市都市計画道路豊里矢田線として道幅の広い道路が開通したのでした。


   

常善寺への道しるべ(大今里西1丁目)


 

大今里西1丁目の曲がり角にあり、表に「南無妙法連華経法界」側面に「是の左へ三町常善寺」と刻まれています。
常善寺は寛延元年(1748)に創建された本門法華宗の寺で、江戸時代道頓堀五座の芝居の出し物は、代官・役者・関係者がここへ集まって決める習わしで、そのため西今里村常善寺への道標がここに建てられたと言われています。
私は当初、常善寺はもう無いと思っていましたが、知人から現存すると聞かされ、これを書くため訪れたのでした。
楠神社前の道路を200mほど北へ行ったところだったのです。
現在は本堂並びに庫裏が改修され、左手に朱塗りの六角堂が安置され、正面には唐破風の玄関に高欄がめぐらされ、屋上に四角い塔のような建物が乗っかっている本堂を構えたお寺でした。

 

道標の横には暗越奈良街道の説明文を刻んだ碑(いしぶみ)が据えられていますが、近くに住んでいながら読んだことが無くお恥ずかしい次第です。

「暗越奈良街道は高麗橋(江戸時代は玉造)を起点に、奈良への最短コースをとる街道で、生駒山脈の横断は暗峠を越えるのでこの名がある。古代に開かれた平城京への道は一部この街道と重なるといわれる。近世になって豊臣秀吉の天下統一と、弟の秀長の郡山城での大和支配など、奈良との関係で重視された。江戸時代の元禄7年(1694)俳聖芭蕉はこの道を通り来阪したこれが芭蕉最期の旅となった。またほぼ60年周期で爆発的に流行した伊勢参宮の”お陰参り”の時は、一日7-8万人の旅人で賑わった。」
と刻まれています。


区名の由来 東成(古名:東生)


古代、細長い上町台地の西側は、大阪湾の海水が打ち上げた土砂によって陸地ができ、東側は淀川、大和川の運んできた土砂によって、河内湾、河内湖が低湿地化されて河内平野が出現した。
この東の低湿地帯は稲作に適しているので、多くの人達が住みつくようになり、現在の大阪の発展の基を作った。
上町台地の西側にできた土地を西生郡、東側を東生郡とよぶようになったのは、今から1300年ほど前の奈良朝時代だった。この東生郡は生駒山麓まで広がっている広大な土地だった。
 大阪市に編入されてからも東成区は、旭、城東、鶴見、生野を含めた広大な土地だったが、今では2番目に小さな区になってしまった。歴史は1300年も続いているのに・・・。


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